利己的な遺伝子 ひとり読書会 1
今や古典となった動物行動学者リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins)の「利己的な遺伝子」を読み返しながらより深く理解したいという欲望の下ひとり読書会と称してまとめていきます。なんだかんだと物議をかもす表現をする人ですがこの本と「延長された表現型」では現代の進化生物学の概念を非常にうまくまとめています。これが終わったら「延長された表現型」もまとめてみようと思います。全13章立てなのでコツコツ行きます。
利己的な遺伝子 読書会1:人はなぜいるのか
利己的な遺伝子 読書会2:自己複製子
利己的な遺伝子 読書会3:不滅のコイル
利己的な遺伝子 読書会4:遺伝子機械
第1章 人はなぜいるのか
この章の内容は大まかに
- この本でどのような事を記述する、またはしない予定か
- 用語の定義
- 個体レベルの利己行動と利他行動の具体例
- 群淘汰説の批判
- 淘汰の単位が遺伝子である事の主張
となっています。
1. この本でどのような事を記述する、またしない予定か
まずこの本で主張したいことです。端的に言えば
- 生き残ってきた遺伝子に期待できる特質のうちでもっとも重要なことは遺伝子レベルの利己主義である。
ということに他なりません。重要なのは遺伝子レベルであるということです。ここでレベルとは原子・遺伝子・個体・種などあつかう現象の大きさ(基本単位)の意味で使われています。つまり「重要なのは(原子でも個体でも種でもなく)遺伝子レベルにおける利己主義的振舞である」ということです。決して「個体は遺伝子レベルで(本質的に)利己主義である」のように「遺伝子レベルで」という言葉を「個体の本性は」という意味で使用しているわけではありません。後に語られる通り個体レベルでは利他主義と見える行動も遺伝子レベルに視点を移せば利己主義が成立している場合もあります。続いてこの本において主張しない予定の事柄です。大きく
- 進化に基づいた道徳を主張する予定はない
- 氏か育ちか論争における立場を主張する予定はない
- 人間やその他の動物の詳細な行動を記載したものではない
の3つを挙げています。まず最初の「進化に基づいた道徳を主張する予定はない」に関してドーキンスは「どうあるべきという主張と、どうであるという言明を区別できない人々」への免責として強調している事を述べています。これも科学に対する社会からの批判によくありがちな話です。つまり一つには「その(科学的)事実は私の政治方針(利益)にとって都合が悪い」から批判するというたぐいの批判を避けるために、あくまでこの本では「どうであるという言明」をしているのであって「どうすべきであるという主張」をするつもりはないと強調しているわけです。何故ドーキンスがわざわざこんな免責を強調しなくてはならなかったかは補注1-2に具体的に書かれています。
一九八九年において私にとって不愉快な読み直しが行われていることを、付け加えておかなければならない。「近年イギリスの労働者について〔利己的な欲望を抑制して集団全体の崩壊を防ぐ必要性が〕、何度言われてきたことか」はまるで私がトーリー党員であるかのように聞こえる。一九七五年に私がそれを書いたときには、その選出に私が一票を投じた社会主義者の政府は二三%のインフレと絶望的な戦いを続けており、高賃金要求に著しい関心が寄せられていた。私の所見は、当時の労働党政府のどの大臣の演説からでも取ることが出来たであろう。今やかのイギリスは、ニュー・ライトの政府を持っており、この政府は卑劣さと利己性をイデオロギーの地位にまで高めており、私のことばは、その関連で、遺憾ながら一種の下劣さを獲得するに至っている。私は自分の言ったことを撤回しようというのではない。利己的な近視眼は今なお、私が述べたような望ましからぬ結果をもたらす。しかし今日では、イギリスにおいて利己的な近視眼の実例を探すとすれば、まず最初に労働者階級に目を向けることはないだろう。
ここで注釈を入れると、トーリー党とは保守党の別名(保守党の前身の党)のことです。また一九七五年時点ではイギリスは労働党が第一党ですのでドーキンスの言う「私が一票を投じた社会主義者の政府」は労働党政府を指します。さらに「今やかのイギリスは、ニュー・ライトの政府を持っており…」のくだりで指す政府は一九八九年時点の第一党である保守党を指します。ドーキンス自体は「利己的な近視眼」の実例で真っ先に注目すべきは労働者階級ではない、と主張しているわけです。つまるところこの文章は少なくとも当時のドーキンス自体は労働党側(中道左派)なのですが彼の科学における言明が保守党の政治方針を正当化するために都合よく引用されたことに対する遺憾の意を述べたものです。本来この人の書籍における言明は正確に読めばこういった政治利用されるような内容ではありません。ですが生物学における科学的事実は当然ヒトも例外なく含みますので生物学に疎いであろう大部分の人たち(そしてそれはまさに有権者の大部分に等しいですが)に対しては政治方針の正当化に利用しやすい(騙しやすい)側面は間違いなく持っています。社会生物学論争の政治への波及などは典型的な例だと思います。ですのでこのような側面、つまり「その(科学的)事実は私の政治方針(利益)にとって都合が良い」という政治利用をも防ぐために特に道徳を主張しようというのではないことを強調しているわけです。(出所:イギリス総選挙 - Wikipedia)
続く「氏か育ちか論争における立場を主張する予定はない」に関しては特に細かくは言及されていませんので、「人間やその他の動物の詳細な行動を記載したものではない」に関してです。これは自然淘汰により進化したものであれば一般に適用できる利己性を語りたいのであって、個々の実例から「だからほかの生物も利己的である」という主張をするつもりがないことを言っています。実際この本には例としてならば具体的な話がいくつも出てきます。
2. 用語の定義
用語は以下のように定義されます。
- 幸福
- 生存の機会
- 利他的行動(利他主義)
- 自分を犠牲にして別の同様な実在の幸福を増すような振舞い
- 利己的行動(利己主義)
- 別の同様な実在を犠牲にして自分の幸福を増すような振舞い
ここで二つの重要なことがあります。まず一つ目は
1. 利他主義・利己主義は共に行動上のものを指し主観的なものを指さない
ということです。つまり利他主義・利己主義という言葉はその個体がその行動を利他のためもしくは利己のためと認識している(または無意識である)かどうかは問題としておらず、結果として出力される行動が利他的に働くか利己的に働くかに対してのみ定義されるということです。あまりヒトを例にするのは適切ではないかもしれませんがわかりやすさのために例を挙げれば、
- いつも他人から財産を奪ってやろうと思って動くがほとんどの場合自分が損をして逆に相手に利益を与えてしまう。= 利他的行動
- いつも他人に良かれと思って動くがほとんどの場合自分が利益を得て逆に相手に損害を与えてしまう。= 利己的行動
のような感じです。この例はあくまで私が考えたものでドーキンスが述べているものではない事を強調します。ドーキンス自体は自種(ヒト)を扱うと主観的に考える癖を抑えがたいので避けると言明しています。二つ目の重要なことは
2. 幸福(生存の機会)はたとえ実際の生死の見込みに対する効果がごく小さく、無視できそうに見えたとしても定義される。
ということです。つまりたとえわずかでも自分の死の危険性を上げ、別の同様な実在に対して生き延びる可能性(幸福)を上げるならば利他的行動と定義できます。逆もしかりです。
3. 個体レベルの利己行動と利他行動の具体例
続いて個体レベルの利他的(に見える)行動と利己的(に見える)行動の具体例が挙げられています。この本は淘汰の対象となる基本単位は遺伝子と考えるべきであるということを主張しています。ですので個体レベルの場合には利他的(に見える)、利己的(に見える)と「のように見える」という表現が適切であろうということにも言及しています。つまり個体レベルでの利他的行動も利己的行動も、遺伝子レベルの利己性から説明できるということを強調しています。利己的に見える行動の例を見ていくと
利己的に見える行動
- ユリカモメ
- ある巣の親鳥が、隣の巣の親鳥が雛の餌を取りに行っている間にその雛を食べてしまう。
- カマキリ
- 交尾の際に雌が雄を共食いする。
- 皇帝ペンギン
- 初めに海に飛び込んだ個体がアザラシに食べられやすいので他の個体を先に海に突き落として安全を確保する。
等が挙げられています。また利他的に見える行動の例では
利他的に見える行動
- ハチ
- 蜜泥棒を刺す(刺したハチは死ぬ)
- 多くの小鳥
- 捕食者を見つけると「警戒声」を出し仲間に知らせる(警戒性を上げた鳥は捕食者の注意を引く)
- 多くの地上営巣の鳥
- 捕食者を見つけると「偽傷」ディスプレイを行い雛から離れた場所に誘導する
等が挙げられています。写真は左からミツバチ、スズメ、ハジロコチドリです。各々刺したら死ぬハチ、警戒声を持つ鳥、偽傷をする鳥の代表としてあげました。偽傷ディスプレイは雛を守るために親鳥が捕食者のそばでけがをしたふりをし、捕食者を雛から離れた場所に誘導するという行動ですがコチドリの偽傷ディスプレイの様子がYouTubeにありましたので掲載させてもらいます。
実にけなげです。
4. 群淘汰説の批判
群淘汰説とは書中のドーキンスの言葉で表すならば「各個体がその集団の幸福のために犠牲を払うようにできている種ないし種内個体群のような集団は、各個体が自分自身の利己的利益をまず第一に追求している別のライバル集団よりも、おそらくは絶滅の危険が少ないであろう。したがって、世界は、自己犠牲を払う個体からなる集団によって大方占められるようになる。」という説です。現代の主流と同じくドーキンスはこの説に対して懐疑的であり批判をしています。
- 利他的集団維持の難しさ
- 群淘汰の働くレベルの不明瞭性
「群淘汰の働くレベルの不明瞭性」に関してはドーキンスが人間社会における例をあげ「政治的に自由主義的な人々は、ふつうは種の倫理を最も強く信じている人であり、したがって今や彼らは、利他主義の枠をさらに広げて他種をも含めようとする人々に対して、最も強い軽蔑の念を抱いていることが多い。」と述べています。この主張は人間社会における心理的動きを見事に表していると私は感じました。というのもどのレベルの間においても成立していると思われるためです。ドーキンスの例は種と全生物の間で起こった場合の例ですが、先ほど挙げた家族、国家、人種、種、全生物のそれぞれについてどの間においても成り立ちうるかを考えてみます。
- 家族⇔国家
- 家族を利他主義の単位とみなしている人(つまり家族が最も大事である人)が国家の利益の為に家族から犠牲を払えと言われた場合
- 国家⇔人種
- 人種⇔種
- 人種を利他主義の単位とみなしている人(つまり人種が最も大事な人)が種(多人種も含めた人類)の為にその人種から犠牲を払えと言われた場合
どのケースにおいても自分が重要とみなしている集団より大きな集団を利他集団の単位のように扱った場合、実際に「最も強い軽蔑の念」を持つ人が多そうだと私は感じます。家族⇔国家についてはどこの国においても一般にみられるケースなのでわかりやすいですが、国家⇔人種と、人種⇔種のケースではモンゴロイドで考えるよりはドーキンス自身と同じコーカソイドからの目線で考えた方が分かりよいように個人的には感じます。つまりより具体性を持たせて言えば
- 国家⇔人種
- 国家至上主義者が、経済的に困窮している同人種の国家の為に自分の所属する国家から犠牲を払えと言われた場合
- 人種⇔種
- 白人至上主義者が、ある貧しい黒人社会の為に犠牲を払えと言われた場合
などは、実際強い反発を招くことが考えられます。ドーキンス自体は「知的活動を行いうる全動物」を自分の所属する利他集団の単位とみなしたいように見受けられます。チンパンジー等に対する動物実験等にも批判的ですし。ちなみに私自身は全生物とみなしたがる傾向を持っているようです。もちろん無茶なのは承知の上でです。
5. 淘汰の単位が遺伝子である事の主張
一連の群淘汰に対する批判を終えたのち、この章の締めとしてこの本の主題の一つでもある「淘汰の基本単位が、種でも、集団でも、厳密には個体でもなく遺伝子である」という主張がなされます。後の章では何故そう言えるのかが詳細に述べられることになるのですがここでは主張にとどまっています。
今回はここまでにして次回は第2章 自己複製子について読んでいきます。
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